昭和39年4月
加藤 忠(かとうただし)先生が赴任されました。
東京芸術大学卒業後、埼玉県で中学校の教師をしながら、演奏活動に夢を託していた頃、芸大時代、それも同じ楽器科・クラリネットの同級生でもあり、当時、観音寺一高吹奏楽部の指導者でもあられた佐倉先生から誘いの手紙が舞い込みました。 |
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手紙によれば、「こちらは四国の片田舎だけに、芸大出というだけで楽をして稼ぎ放題だ。周囲からは、チヤホヤされて、仕事も楽で、給料も良くて、その上、ブラスの指導手当は沢山出すと校長が保証したこと、その他にも自宅でレッスンでもすれば、ものすごい金になって出世も早い。俺なんか、カメラも買ったしクルマも持っている。」と、何から何まで結構な話で、当時、カメラやクルマはまだ一般庶民には手の届かない、夢の時代であったから、「それならば!」と、甘い言葉に騙され、東京を後にして、勇んで観音寺一高へ着任。 |
そこでガックリ。見ると聞くとは大違いで、吹奏楽部の台所は火の車。
なるほど、先輩達をはじめ、町の人々皆さんが、親切な人ばかりで大変楽しく、少しばかりエラクなった様な気分はするものの、一年中、毎日、毎日休日返上の練習で、仕事がラクなどころか、収入は東京に居た時の約半分、手当のことを校長に尋ねれば、あいまいに口を濁すだけ、ブラスの予算にしても、最初に聞いていた額に比べればお話にならない位少なく、何かにつけてポケットマネーが出ていくばかり、随分苦労させられました。 |
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楽器はというと、クラリネットはB♭(ベ)管のみ、それも米軍払い下げの金属管のものや、マーリイという一本二万円位の粗末な楽器を、それでも「舶来」ということでありがたがっていたものです。
サックスは、アルトとテナーだけ。ホルンはフレンチホルン一本のみ、それも左手でバルブを扱うのは難しくて、敬遠されがちで、メロンフォンとアルトをまだ使っていました。
ティンパニーは、日管製ペダル。それでも「観音寺一高には自前のティンパニーがある」と他の学校からは羨ましがられました。 |
コンクールでは、高知商の後塵を排し、二位の成績でしたが、一年目に取り上げたフランス軍隊行進曲、そして、二年目のスラブ行進曲、いずれも当時出せる最高の音を引き出した、先生の卓越した指導力と指揮法は定評があり、在任中は絶えず吹奏楽のレベルアップに努め、観音寺一高吹奏楽部の基盤を増々不動のものとされました。 |
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