昭和34年4月
佐藤陽三(さとうようぞう)先生が赴任されました。観音寺一高は、佐藤先生にとって東京芸術大学卒業後、最初の赴任校でした。観音寺駅に着き、ホームの足下から青々とした麦畑が、遥かを山麓まで延々と続く風景に、絶句するおもいに襲われたそうです。 |
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その頃の音楽教室は、プールの横にあった武道場を半分にしきった芸術教棟で、今なら明治村でも喜んで引きとって貰えるようなしろものでした。
ブラスの楽器は、その廊下のすみにもうけられた格納庫にしまってありました。
部員も25人の小編成がやっとで、楽器もガタガタの上に数も揃わず、コンクールの際は、楽器が足りずに、近くの中部中学校の楽器を一、二本借りて出場しました。 |
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コンクールは、昭和34年に、松山でB部門2位入賞、翌年には、徳島で1位に入賞しました。
そのコンクールの徳島会場では、本番直前、クラリネットが一本故障して、動かず、大慌て。大学の部に出場していた、愛媛大学の楽器を急遽、拝借して、急場を切り抜けたこともありました。 |
ボロの楽器といえば、後任の佐倉先生が初めて学校にみえた時、練習していた生徒のクラリネットを手にとって吹いた際、音が少しも出なかったので、先生もビックリ。生徒が吹くとちゃんと鳴るのに、専門家の佐倉先生が吹くと、音が出ないという、まことに観音寺一高伝統の特殊技術があったようです。
少ない部活費、年間28,000円程をやりくりして、合成樹脂製のクラリネットを買いました。 |
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このとぼし
い楽器なのに格納庫を破られ、泥棒に盗まれるという盗難事件があり、校長室に呼ばれて叱られるし、警察では、部員一同指紋を採られるしで、ションボリ。
それでは、有料音楽会を開いて我々の手で新しく楽器を買い戻してやる、と一念発起。 |
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ところが学校の許可が得られず、毎晩、校長、教頭の自宅へ押し掛け、3日目に許可をとり、第1回納涼音楽会を開催しました。
入場料は、50円也。暑い最中に、旧体育館で開催したので、戸は全部開放し、野球部や柔道部に頼んで無料入場者のチェック。その依頼料や出演した中学生に記念のハンカチを配ったりした為に収益が少なく、年が明けて、今度は新春音楽会を開いてやっとクラリネットが1本買えました。
この時の納涼音楽会が、サマーコンサートのきっかけになりました。 |
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