昭和36年4月
佐倉友章(さくらともあき)先生が赴任されました。
佐倉先生は、東京芸大を卒業後、東京でいらっしゃいましたが、芸大時代の同級生でもある佐藤陽三先生に「給料は良いし、物価は安い。」
とうまく誘われ、夢と希望を持って観音寺一高へ赴任されたそうですが、ふるい体育館・田舎のお寺のような校内や校舎、夢と現実の違いにビックリされたそうです。 |
 |
 |
四国吹奏楽コンクールでは、ガタのきた楽器で、前年同様、B部門で優勝しました。 |
 |
昭和37年
観音寺第一高等学校吹奏楽部後援会を設立。
B部門では全国大会出場権が得られず、後援会費、94万2,468円を集め、A部門参加に必要な楽器を揃え、部員を集め、一挙にA部門に進出しました。 |
 |
そして、当時、四国吹奏楽界の王者、高知商業高校を敗って、念願の四国吹奏楽コンクールで優勝、全国大会出場権を得て、四国代表となりました。
北海道・室蘭で開かれた全日本コンクールでは、5位に入賞しました。
全国大会では、お金がなかったのか、急な決定で席が取れなかったのか、急行電車に乗ることができず、オール各駅停車の3日間。なんと、食べた駅弁17食。 |
 |
 |
この年、納涼音楽会をコーラス部に渡し、吹奏楽部単独で、第1回サマーコンサートを観音寺一高体育館で開催しました。
|
 |
サマーコンサートは、現在まで40回以上の回を重ね、継続して開催しています。夏は、黄色い海水パンツ一枚で指導に当たり、現在の観音寺一高吹奏楽部A部門編成の基礎を築かれました。その後、昭和39年、香川大学にご栄転されました。 |
 |