昭和30年11月
戦後の域を脱し、ようやく世の中も落ち着きを取り戻した頃、中学時代にブラスバンドを経験した生徒たちを中心にブラスバンドを作ろうと、校長先生や野球部の先生に働きかけました。ちょうど、その頃は、野球部もなかなかの活躍をしていた時期で、夏の大会出場を目指して校内は湧いておりました。その応援にも、ブラスバンドは必要だと持ちかけたので、野球部の後援会のお力添えもあり、最低限の8楽器(フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、大バス、小バス、大太鼓、小太鼓)を購入していただき、ブラスバンドが編成されました。 |
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楽器は入ったものの、吹き方の指導者もおらず、練習場はと見れば、鉄筋コンクリートの新校舎とは対照的な木造のあばら屋でしたが、中学時代の経験者を中心に生徒達は、がむしゃらに練習にとり組みました。 |
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昭和32年
年が明けて間もなく、海軍軍楽隊出身である図子松男(ずしまつお)先生が、新しく発足した観音寺一高ブラスの指導に来られました。
生徒諸君と会った最初に「私は、海軍軍楽隊出身者です。今日から君達と共に練習に入るが、私は、君達に対しては、軍楽隊と変らぬ厳しい指導をしていく。ただ軍楽隊と違うところは、君達をたたいたりしないだけだ。」と言ったそうです。主に、野球の応援に活躍、また、校内の文化祭等はもちろん、当時、西讃の片田舎ではブラスバンドも珍しい存在で、市の文化祭を始め小・中学校を訪問演奏したり、ラジオ香川より録音放送されました。 |
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昭和33年
さらに部員も増し、初めて全四国吹奏楽コンクールに出場しました。コンクール会場は、高知市でした。当日は、高知駅より会場まで、出場校全部が、吹奏行進をすることになっておりました。この時、観音寺一高では行進用の指揮棒がなく、仕方なく真鍋さんに無理を言って、檜の角材を持参してもらい、図子先生がカンナで削り仕上げて、この手製の白木指揮棒で、高知駅前より発進しました。この時の人員が、22名だったそうですが、そのうち、4名は、あまりにも人数が少なかったので、豊中中学校、笠田高校より楽器を借り、音は出さないようにして、外見は一生懸命演奏しているように演技よろしく、堂々と会場まで行進しました。 |
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会場に着いて他の学校を見ると、観音寺一高の次に人数の少ない学校でも27名が1校くらいで、他は30名以上と大編成の学校ばかりでしたが、その中で、我が観音寺一高は、実質、僅か、18名ながら、堂々と演奏をし初出場で4位に入賞しました。 |
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